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たたり


書斎の本棚(小)。

「たたり」シャーリイ・ジャクスン 渡辺 庸子訳 創元推理文庫 1999年6月18日 540円 初版

新刊で購入。出てすぐに買ったと記憶する。
前の記事に書いたとおり、本書「たたり」は、前の記事の「山荘綺談」と同じ作品である。要するに、別の出版社から、別のタイトルで新訳書が出たのだ。
このように、「同じ作品を何冊も持っている」というのは、愛書家の人がよくやる所有方法なのだが、当ブログを見ていただくと分かるように、私はそういう買い方をしないタイプの愛書家である。エラリー・クイーンファンクラブの例会などに出かけていくと、「Xの悲劇」を、色々な版で5~6冊持ってる、などとという方が普通にいたりするが、私は重度なクイーンファンのくせに、そういうのには共感できなくて、
「……何のために?」
と言うようなやつなのである。

そんなやつが、「たたり」=「山荘綺談」だけは別の版で2冊持っているのは、あまりにもこの作品を愛していることと、ジャクスン作品の訳出数が少ないためであると思う(訳出数というか、元々作品数も少ないんだけど)。「山荘」が新訳で出た!と思ったら、なんか知らんけど買ってしまったのである。

買うときに、やや不満だったのは、「たたり」という妙なタイトルが付いていることだ。この物語は、明確な「こういうたたりで、恐ろしいことがおこりました」という話ではないし、そもそも全然たたりなんか無いかもしれないような話なのだから。
「たたり」というタイトルが付いたのは、本作の映画化時の邦題が「たたり」だったためで、私は映画タイトルのつけ方としても
「どうなのそれ?」
と思っていた。確か、当時日本では映画「八墓村」の中の台詞、「たたりじゃ~」というのがはやっていて、それに乗っかったタイトルだったのだと思う。原作ファンからすると、まったく意味の分からん話である。「クリスタル殺人事件」級の(なつかしいねえ)、無理やりなタイトルである。
無理やりなタイトルのきわみだな~と思いながら、私は「たたり」のVHSテープを買って持っていたが、それは蔵書ブログの主旨とは関係ないことなので、詳細は書かない。
(出版社側も、「たたり」はふさわしくないと思ったらしく、後年「丘の屋敷」に改題されている)

本作の、簡単なあらすじを言うと、
「主人公は、幽霊屋敷調査のために、心霊研究をしている博士に呼ばれて怪しい山荘を訪ね、数々の怪しき事柄を体験し、屋敷の怪しきものに取り込まれたのか、ふるまいがおかしくなって、あげくの果てに自分で車を暴走させて死ぬ」
というものである。
私は、あえて簡単すぎな「あらすじ」を言っているのであって、本作はそれほど単純な怪談ではない。怪談かどうかも断定できないところがあるような話なのだ。

前の記事にも書いたように、私は本作の初読は朝日ソノラマ刊の児童書なのである。大人になって、ハヤカワ文庫や創元文庫で読み直したときに、私はそれほど大きな違和感は感じなかったので、児童書版の訳者さんは、かなり忠実に原作の恐怖を伝えてくれていたのだと思う。主人公が通り過ぎた街や、山荘の内部、周囲の雰囲気などは、児童書と文庫本で、ほぼ相違は無い。もちろん、ストーリーの改変も無い(児童書で、ストーリーの微妙な改変は珍しくない)。

※ここより、私が読んだ朝日ソノラマ版を「児童書」、ハヤカワ文庫・創元文庫を「大人版」と書かせていただく

大人版を読んで知ったが、児童書では、原作からあるものがばっさり切り捨てられている。
それは、本作の、各登場人物がそれぞれに持っている「ヤバさ」みたいなものだ。

たとえば、ルークは、児童書ではただただ好青年であったが、大人版では信用ならない部分や愚かしいを含むヤツだった。
また、セオドラは、児童書では主人公エリナーの良い友達だったが、大人版で読んだら、セオドラと主人公が仲良くできるのは最初だけだった。
一番ひどいのは主人公で、私は彼女が、こんなに自己愛におぼれまくる人とは思わなかった。自己愛のせいで悲惨なものを招く人だということ自体は、児童書にも現れていたのだが、いやはやここまでひどく、残酷に描かれているとは思わなかったのだ。

上記のような部分を排除した結果、児童書では、女同士が傷つけあうような台詞の部分はカットされたり、ニュアンスを変えられたりしている。
大人版で読むと、主人公は結構早いうちから、「こいつ、相当ヤバイな」と思わせる面を見せ始める。
幽霊屋敷よりも、主人公の方がヤバイのではないか、と思うほどである。

すごく簡単に書くと、元々やばい要素を持った人が、怪しい環境で完全にぶっ壊れていく様を描いた物語と言えるのだと思う。こう書くと、すごくありきたりな物語のように感じるかもしれないが、それは本書を読んでから判断していただきたい。私は、これほど怖い本を読んだことが無いのである。管理人静草、大プッシュの作である。ついでにスティーブン・キングも大プッシュしているとお伝えしよう。

しかし、考えたら、「闇のある主人公が、特異な状況に引っ張られ、より深い闇に転落していく……」という物語展開は、非常に新しいタイプの物語だと言えないだろうか。映画だとか、小説で、「闇の深い主人公」「トラウマ持ちの主人公」というのは、昨今はやっているように感じるが、本作が書かれたのは1959年である。
そのころのホラーというのは、
「悪いことをしたやつが、その報いで幽霊とか悪霊にこらしめられる」
か、
「何も知らない平凡な市民が、かつて怖いことのあった場所に偶然やってきたために、とばっちりで幽霊や悪霊に襲われる」
とかいうのが多い。
主人公の闇を掘り下げ、しかも幽霊屋敷側のコワさもきっちり描くのは、本作がパイオニア的存在と言ってもいいのではあるまいか。また、主人公の「闇」の大きな原因となっているのが「介護問題と家族間の不仲」であることも、新しさの一つと数えていいかもしれない。

物語の後半になると、主人公のやばさがものすごく切なくなってくる。
読者は、ヤバイやつと知りながら、やはり主人公に感情移入していくのだ。本作で、主人公以外には感情移入することは難しいので(私の好みの問題ではなく、どう読んでもそうなると思う)、読者はヤバイヤバイと思いながらも、主人公についていくことになる。
感情移入してしまったら、主人公がヤバイ方向にねじれた発想をしたり、他人の態度をヤバイように受け止めたり、また、本当に他人にヤバイ態度をとられたりしていると、
「やめなさいよ。そして、あんたたちもやめてあげなさいよ」
としか思われない。
完全に、物語が不幸にむかってまっしぐらなのが分かる。それを何とかしてやるすべは読者にはない。
こんな思いをしているところを、幽霊屋敷が怪奇現象で引っ掻き回してくる。
しかし、快音とか、血文字が現れるとかいうシーンの方が、読む側の心は平安だと思う。主人公のヤバさが爆発しているシーンにある切なさは、幽霊屋敷の怪奇が爆発しているシーンには無いからだ。

物語の最後に、主人公は死んでしまう。
たしか、私の読んだ児童書には、
「エリナーの葬式に、お姉さんは怒って出て来なかった」
という記述があった。姉妹は不仲であり、エリナーは姉の車を借りて山荘に来ていて、その車が壊れたことを「怒って出てこなかった」のだ。

ところが、この記述は、大人版には存在しない。原文にも無いのだと思う。「お姉さんが来なかった記述」だけではなく、エリナーの葬式の記述自体が無いのである。
児童書では、主人公の人生の決着を、分かりやすく書くべきだと思ったのかもしれない。

また、児童書では、エリナーの死亡事故の後何年たっても、山荘の中から、
「エリナー」
「ママ!」
という声が聞こえることがある、という勝手なオチをつけてある。これも、大人版には無いのである。
物語りの締めくくりの部分で、一文飛ばして訳すなど考えられないので、これも原文に無いものを勝手に付けたのだと思われる。
こんなとんでもない蛇足があっていいものだろうかと思う。このオチだと、幽霊屋敷にエリナーはとり殺されました、と断定していることになる。断定できないなにかでエリナーは死んだ、これが原作の結論であるのに、何を勝手に幽霊屋敷のせいにしているのか。

児童書と大人版の違いで、気になるところはもう一箇所ある。
物語の終盤の、博士とアーサーの会話の中で、閑をもてあましたアーサーが、「みんなは何をしているのか」と質問するところがある。
博士は、
「今なら、○○は、ここであれしている。○○と○○は、あそこに行くと言ってた」
というように、山荘にいる人たちがどこで何をしているのか説明する。
児童書では、
「その辺にエリナーがいるだろう」
という言葉が入っているのだが、これが大人版には無いのである。おそらく、これも原文に無いものを、児童書で勝手に付けたのだと思う。児童書では、メンバーみんなの居所が挙げられているのに、主人公その人の説明が入っていないのはおかしいと思っての付け足しだったと思う。
作者としては、
「みんながエリナーのことにだけ触れない。誰もエリナーに関心を持っていない」
という演出で、わざわざエリナー以外のみんなを挙げているのだと思うが、児童書は「主人公の闇関連」を一部回避しているので、この演出には乗れなかったのだろう。

本作は、コワいながらも、物語としては大きな魅力を持っている。コワい部分ももちろん良いのだが、山荘自体の美しい描写や、屋敷の中の古風なアイテムや、挿入される唄や詩の魅力がバカにできないのである。
ジャクスンのほかのホラー作品もそうなのだが、この一作をトータルで考えると、独特の寂寥感のある美が、恐怖と同等のパワーを持っていると思うのである。
私にとっては、本作の「山荘」は、恐怖の場所であると同時に、限りない憧れを感じる場所でもある。
いつか自分は、全財産を車のトランクに入れ、ヒルズデールの村を通って山荘を目指していくのではあるまいか? 40年近く前に、本の中で初めて出会ったエリナーがそうしていたように。

山荘は、おそらく私を受け入れてくれるだろう。山荘は、きっと知っている。
私がこの40年というもの、エリナーの哀れみに、ずっと共感を覚えてきたのだということを。
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